無垢の時代 (岩波文庫 赤345-1)
Set in 1870s New York high society, the novel follows Newland Archer as a reunion with the unconventional returned Countess Ellen Olenska pulls him between desire and duty. Within a world ruled by etiquette and silence, Wharton traces the cost of love and self-restraint.
Work Information
Behind the polished rituals of old New York, one reunion unsettles an entire life.
Edith Wharton precisely depicts the etiquette, gossip, and silences of old New York, and through Newland Archer’s choice between love and duty, brings out the glittering claustrophobia of high society. It is a classic of American literature, best known as the first Pulitzer Prize-winning novel.
Review Summaries
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Readers often praise its classical craftsmanship, especially the restrained prose and the tension of social ritual. Some appreciate the deliberate pace as part of its gravity, while others find that same caution deepens the novel’s afterglow.
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Readers respond to the fine-grained psychology and the cool voice that avoids stating emotions too directly. The contrast between glittering social scenes and the pressure underneath them is read especially well.
Book Information
- Publisher
- 岩波書店
- Published
- 2023-06-15
- Pages
- 588 pages
- Language
- 日本語
- Size
- 2.3 x 10.5 x 14.8 cm
- ISBN-13
- 9784003234518
- ISBN-10
- 4003234510
- Price
- 1507 JPY
- Category
- 本/文学・評論/文芸作品
一八七〇年代初頭、ある一月の宵。純真で貞淑なメイとの婚約発表を間近に控えたニューランドは、社交界の人々が集う歌劇場で、幼なじみのエレンに再会する――。二人の女性の間で揺れ惑う青年の姿を通じて、伝統と変化の対立の只中にある〈オールド・ニューヨーク〉の社会を鮮やかに描き出す。ピューリッツァー賞受賞。
Reviews
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ようやく読めるようになった。
たしか新潮文庫にかなり前に定冠詞をはずしたカタカナ英語の表題ででていたような。記憶は定かではないが、あまり評判にならなかったのでは。私は未読。で、このたび岩波文庫に収められることになっていったんはパスしたものの、鏡花の「日本橋」と説教節を購入するときに同時に注文。私はアメリカ文学はあまり好きではないのだが、これは予想を大きく上回る傑作。同時代にはやはりハイ・ソサエティを舞台にしたプルーストの「ゲルマントのほう」やラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」のような文学的達成がみられるが、この作品はアメリカの女性作家がひとりの男性を主役に据えて、時代の諸相を描き出すというだけにとどまらず、現代のわれわれにもまた、何事か不穏な気配を感じさせる、発表年を考えると、これが正当な評価を受け ていなかったのが不思議に思える。と感想のようなことを綴ってしまったが、読んてよかったということです。岩波書店と訳者には感謝。
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もっと翻訳され、もっと読まれていい小説家です
1870年代のニューヨーク上流社会に棲息するのは、その商才でもって莫大な富を築いた先祖をもち、いまは不動産や投資と利子のみによって生活できる、つまりは基本的に「額に汗して働く」ことのない人びとです。それは、領地から上がる収益と世襲財産によって生き、やはり「額に汗して」働くことをしないヨーロッパの貴族のありかたに近似するものです。 そのため、貴族階級がもとより存在しなかったアメリカにあって、ヨーロッパへのあこがれとその裏返しとしてのコンプレックスゆえにか、東部上流階級はロールモデルとしてヨーロッパ貴族のライフスタイルをお手本にし、またそのモラルを内面化しようとしたものと思われます。 (もう少しつけくわえると、ニューヨークは、歴史をさかのぼれば17世紀にオランダ商人たちが入植して作った当時ニューアムステルダムと名づけられた町が元になっていて(17世紀当時世界経済の覇権を握っていたのはオランダで、その首都アムステルダムは世界経済の中心都市、そこで支配的地位にあったのがレヘントと呼ばれる富裕な商人貴族たちでしたが、領主権をもつ大土地所有の地主貴族だったヨーロッパ本来の貴族たちからはしかし低く見られていました)、町はしかしその後すぐイギリスに占領されその支配下に置かれるなか、以後、ウォートンの『オールド・ニューヨーク』によれば「イギリス系とオランダ系とが混じり合うなか、銀行家や造船業者、船具商の富の上に築かれた”a prosperous, prudent and yet lavish society”がニューヨークの町に形成された」ということになっています)、1870年代を時代背景にするこの小説ではヴァン・デル・ライデン家のようなオランダ総督の系譜を引く家門が、ニューヨークのいちばん古く由緒ある家柄としてヨーロッパふうの大貴族のようにふるまっていたというわけです。ちなみに、この小説でもちらっと名前(セオドアのほう)が言及されるアメリカ大統領を二人出したローズヴェルト家も、名前からして分かるようにニューヨークのそういうオランダ系名門一族でした) 長い年月のうちになるべくして自然とそうなったというようなライフスタイルでもモラルでもないため、模倣というのはしかししばしば度を超え、ライフスタイル(慣習・儀礼)にしてもモラル(道徳・規範)にしても妙に融通のきかない厳格で形式ばったものになってしまいます。 この小説にあらわれるニューヨーク上流社会もその弊をまぬかれてはいません。 それに、ヨーロッパの貴族社会ほどの規模や広がりがないため、それは一種”村社会”となって閉鎖的な世界をニューヨークのどまんなかにかたちづくっています。 (しかしその社会は物語当時すでに「旧いニューヨーク」になりつつあって、南北戦争(1861-65)後のアメリカにおける資本主義の急速な進展とともに1870年代は拝金主義がはびこり成金趣味の新興富裕層が幅をきかすいわゆる「金メッキ時代(Gilded Age)」に入った時期でもありました。そこでの最大の成功者がやはりオランダ系のヴァンダービルト家でした) 小説の主人公はニューランド・アーチャー。 彼は、職として弁護士に就いていますが、これは生活のためという以上に、上流階級の男子子弟にふさわしくどこまでも体裁と体面を保つために選ばれる、ようはリスペクタブルな職業のひとつでした。小説では言及されていませんが、ハーバードのようなアメリカ東部名門大学を卒業して弁護士になったのでしょう。 その彼が生き、また彼をとりまくのは、いくらかの違和感をときにおぼえつつも、それをどちらかといえば心地よいものとして受けいれてきた、慣習(あるいはむしろ因習)と無知(偽善としてのイノセンス)にこそ至上価値を認める、上で述べたようなニューヨーク上流社会です。あえて何も考えず何も知らず、要は因習と無知に身をすっかりゆだね、その村社会のルールさえ守っていれば、一生オートマティックに、また快適優雅に生きていける社会です。 ニューランドはニューヨークの名門ミンゴット家につらなるメイとすでに婚約中という状況で物語がはじまります。 そこにポーランド貴族との結婚生活(ポーランド貴族とはいえ、夫婦の生活の場は基本的にヨーロッパ社交界の中心パリに置いていたはずです)が破綻してアメリカに帰ってきたオレンスカ伯爵夫人(エレン)があらわれます。エレンもミンゴット家の血を引き、メイとは従姉妹どうしの関係です。 醜聞(離婚問題)をはらんでのエレンのアメリカへの帰還、そしてヨーロッパ的な自由と経験を体現した彼女のニューヨーク社交界への再登場とそこでのふるまい、それが狭いニューヨーク上流社会に大小さまざまな波紋を呼び起こすというところから物語は大きく動いていきます。 エレンは、長くヨーロッパの貴族社会のなかで生きてきたためにほんとうの貴族なるものを知っています(夫はポーランド貴族とはいえ、ふたりの普段の生活の場はパリであったはずです)。そのヨーロッパ的な経験(四角四面なしきたりに必ずしもとらわれない精神の自由さとそれを可能にする広い意味でのゆたかな教養)が、無知であることをむしろよしとするアメリカ的な無垢――ニューランドが婚約者メイに見る「(何も)知らないですませる能力」、「想像力にたいして心を閉じ、経験にたいして感情を閉じてしまう無垢」、とりわけみずからもそういう生き方をよしとしてきた主人公ニューランドの内面世界にも大きな波紋をつくりだします。 因習にとらわれず自由に生きようとするエレンは、一時は醜聞を嫌うニューヨーク上流社会から無視というか拒否反応さえ招きますが、エレンのような女性をこれまで経験したことがなかったニューランドは彼女に心惹かれるままに、心のうちの思いが外へ、つまりエレンに直接向けて溢れだしそうなまでにその水位が徐々に高まっていきます。 いっぽう、夫(オレンスカ伯爵)の放蕩ゆえにヨーロッパでの生活に深く傷つき、そしてアメリカ帰国後はニューヨークの上流社会でその一挙手一投足に好奇のまなざしを向けられるエレンも、そんなニューランドに引きよせられ、しだいに好意を寄せはじめるものの、他人も自分もこれ以上傷つけたくない、傷つきたくないとばかりに距離をとることを意識しつづけます。 また、婚約期間を縮めてニューランドと結婚したメイは、直截は何も語らず、また何も知らないふりをしつつも、ニューランドのエレンに向けて変化していく気持ちをまるですべて察しているかのように、彼の心の動きにたいして、そのときどきにそっと先手を打つような振る舞いや言動をします。 小説は、主人公ニューランドが視点人物になっていて、基本的にかれの視点を軸に物語が展開していくため、読者は、エレンやメイがいったい何を思い、どのように考えているのかはニューランドの目をとおしてしか推察できません。そこに小説的サスペンスが生まれるのですが、この小説では、そうした視点人物の固定・限定というヘンリー・ジェイムズゆずりともいえる小説技法が効果的に使われています。 このことが物語に緊張感をあたえ、しかもその緊張は物語の進行のなかで持続しつつ徐々に高まっていきます――ニューランドをふくめ登場人物たちの内面に起こった揺らぎは相互に波瀾を生み、ついには決壊や激発に向かうのか、と。 そのさい、いっけん無知・無垢を装いつつも、事を未遂に終わらせようとさまざまに布石を打ち機略をめぐらすメイは、怖ろしいほどに「血を流さないで命を奪うオールド・ニューヨークのやりかた」を心得ていた女性だったといえなくもありません。もちろん彼女は、みずからの家庭だけでなく、醜聞になりえた出来事を阻止し、エレンも自身もそこに連なるマンソン・ミンゴット夫人を頂点にしたニューヨーク名門一族の秩序を懸命に守ろうとしていたともいえるでしょうが。 しかし、たとえたんに自分の家庭を守るだけであったところで、だれがそんなメイを非難することができるでしょう。 物語の終わりにも近い章で、ニューランドはある決断を心にひめます。 そして、かれがそのことをメイの前で要領をえない言葉で切りだしはじめたまさにそのとき、メイはこのときをねらっていたかのようにあることを口にします。さながら最後の切り札を出すかのように。 そこにあるのは、でも、一見ふたりのあいだで静かに交わされる、どこまでも優しげで、ごくわずかな言葉のやりとりにすぎません。しかしその裏で両者のなんと極度に張りつめた心理的駆け引きと対決があることか! 言葉少なな会話にひそむその怖ろしいまでの緊張の高まりに読者はじっと息をのむばかりです。 (主要登場人物間のこうした心理的対決を物語のいちばんの山場にするのは、よく知られた短篇「ローマ熱」でも最高度に発揮されているように、ウォートンの多くの作品に見られる特徴的な物語技法といえます。うまいなあといつも思ってしまいます。他に、いますぐに思い出せるそういうウォートンの短篇中篇として、邦訳はまだありませんが、"New Year's Day"、”Her Son"、"Atrophy"を挙げておきます) 思えば、ニューランドが置かれた状況は、フローベールの『感情教育』(1869年)第2部第六章でアルヌー夫人がフレデリックとの事を決める直前に置かれた状況と似ていなくもありません(どちらの場合も家庭における捨て置けない状況があった)。フランス文学に通じていたウォートンはフローベールのその小説を読んでいたはずです。 しかも、最終章では、そのあとつづいた長い年月にわたる出来事が年代記ふうの記述になりますが、それもいくらか『感情教育』最後の2章にならっているかのようです。 長い年月が経ち、2年前に家人を亡くしていた57歳のニューランドは息子ダラスに誘われるがままにパリにやってきます。 そこで、アンヴァリッド付近(パリの高級住宅街)にある、ダラスが中に入っていったある建物の5階(パリの住居形式では建物の下の階のほうが高級なので、5階の住人となるとどちらかといえば質素に暮らしていたのかもしれません)を、自身はけっしてその建物に入ろうとはせず、ただ近くの木立の下にあるベンチからひとりじっと見つめるだけのニューランド。かれの目蓋の裏には、ある時点で現実からパラレルワールドのように分岐した、ありえたかもしれないもうひとつの人生の映像が漠とながら浮かんでいたはずで、そこに去来するけっしてだれにも洩らすことのなかった、彼の形にならぬ思いが切なくも読者にも伝わってきます(それはしかし、男(の読者)の愚かな感傷ということになるのかもしれません。ニューランドに比べ、思えばメイやエレンのほうがはるかに自分の強い意志で自分の人生を選び、それを生きた人間だったといえるでしょう)。 それにしても、パリのそのアパルトマンに住む住人と30年ぶりに会うよう彼をいざなった長男ダラスは、いうまでもなくニューランドとメイのあのときの… このイーディス・ウォートン(1862-1937)の小説(原題:The Age of Innocence)は、マーティン・スコセッシ監督によって1993年に映画化され、日本では『エイジ・オブ・イノセンス』のタイトルで公開されています。 ずいぶん前にレンタルのVHSビデオで最初観て、その後DVDをあらためて購入し、今回もういちどそれで見返してみました。 小説も傑作ですが、映画のほうも、ナレーションの多用という難があるものの、見ごたえがあって、しかも原作にほぼ忠実に映画化されています。 映像をつうじて、1870年代ニューヨーク上流社会の豪邸やそこを飾る絵画に調度品、さらに衣裳、料理、食器、カトラリーなどその豪奢きわまりない世界が視覚的に体験できるので、小説とあわせて鑑賞してみてはいかがでしょうか。 ニューランド・アーチャーをダニエル・デイ=ルイスが、エレンをミシェル・ファイファーが、そしてメイをウィノナ・ライダーが演じています。小説ではエレンは黒髪、メイは金髪ですが、映画では逆になっています。 なお、映画では、豪華な料理の一品として、食用亀が生きているときと変わらぬ形(?)のまま大鍋のようなものにたくさん入れられてパーティーの食卓に出されるところがちらっと映る場面があります。これはおそらく"terrapin"という種類の亀で、ウォートンの短篇「夜の勝利」でも晩餐に出てくる場面があるのですが、日本のすっぽん料理に似たものなのか、こんな高級料理があるんですね。
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名作に相応しい決定訳の誕生を祝う
ご存じの方もあるだろうが、この長編小説(何しろ550頁にも及ぶので長編という言葉を小説の前に置きたくなる)には既に翻訳が二種類ある。アメリカ文学上の傑作だから当然といえば当然だが、しかしイーディス・ウォートンの代表作の日本での紹介は遅れていたのだ。原作に基づく映画『エイジ・オブ・イノセンス』が1993年にアメリカで制作されて高い評価を受けたのがきっかけになったのであり、映画化がなければ、もっと遅れていたかもしれない。さて、既訳の新潮文庫版も荒地出版社版も、ウォートンの英語の難しさ・作品の長さ・心理描写の訳しにくさを考えれば、読みやすさと正確さの点でそれなりに価値のある訳業であったと言えよう。今回の岩波文庫版は、読みやすさと正確さを併せ持つ点で、まさっている。ようやく名作に相応しい決定訳が誕生したのを祝いたい。これを機会に、この作家の他の秀作も紹介されれば有難い。
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「秩序」を体現する女神と、「自由」を掲げる女神との間で揺れ動く男の物語
恋愛というものは時代により国により環境により、さまざまな様相を呈するのは当然のことだが、恋する者の心理の根本的な部分は共通していると、私は考えています。この意味で、1870年代のアメリカ・ニューヨークの上流階級の恋愛を描いた『無垢の時代』(イーディス・ウォートン著、河島弘美訳、岩波文庫)は、恋愛心理小説の一級品と言えるでしょう。 上流階級の青年ニューランド・アーチャーは、同じ上流階級の令嬢メイ・ウェランドとの婚約発表を間近に控えた晩に、歌劇場のボックス席に突然姿を現した幼馴染のエレン・オレンスカと再会します。エレンはメイの従姉で、今は伯爵夫人となっているが、ヨーロッパに残してきた横暴な夫との離婚を望んでいます。 メイは―― 「この純白に輝く、善そのもののような人(メイ)が傍らにいてくれるなら、これからどんな新しい人生が待っていることだろうか!」。 「メイの正直そうな額、まっすぐな目、無垢で明るい口元を、ニューランドは新しい畏怖の念で見た。自分は将来、この人の魂の保護者になるのだ」。 「ニューランドは心から、そして穏やかに、メイを愛していた。メイの輝くような美しさ、健康、乗馬の腕前、スポーツで見せる優美さと機敏さ、そしてアーチャーの導きによって少しずつ深まり始めた、書物や思想への関心などを喜んでいた。メイは正直で誠実で勇敢だった。ユーモアのセンスがあることは、ほかならぬニューランドの冗談に笑うことで主に立証された。また、無邪気に周りを凝視する魂の深みには、燃えるような感情――呼び覚ますのが喜びとなるような感情が潜んでいるのではないかと思うこともあった」。 「白と銀色のドレスを着て、髪に銀色の花冠を着けた長身の(メイの)姿は、狩りを終えて地上に降り立った女神ダイアナを思わせた」。 「ニューランドと並んで、大股できびきびと歩くメイの顔は、大理石でできた若い運動選手のように、無表情にも見える落ち着きを浮かべていた。神経が張りつめたニューランドにとってそんなメイの姿は、青空やゆったりした川と同じように心の和らぐものだった」。 贅言ながら、メイは私が理想とする女性像を体現しています。 一方のエレンは―― 「ニューランド・アーチャーは、エレンの容貌に関する噂は間違いだと悟った。以前の輝きは確かに失われており、頬の血色も薄れていた。やせてやつれが見え、たしか30歳になろうとするはずの実年齢よりわずかに老けて見えた。だが、美の威厳とでも呼ぶべき、不思議な雰囲気があって、頭や目の動きなど、自信に満ちた身のこなしにわざとらしさはまったくなく、高度に訓練され、しかもその力を十分に意識しているようにニューランドには感じられた」。 「どんなことをしてもこの人(エレン)をそばに引き留めておきたい、今宵はずっと自分と二人で過ごしてほしい、とニューランドは感じた」。 「エレンもキスを返したが、すぐにニューランドの腕の中で身体を硬くすると、腕を押しやって立ち上がった。・・・『いいえ、いけません。そんなことがあってはなりませんわ。あなたはメイ・ウェランドの婚約者で、わたくしは既婚者なんです』」。 ニューヨーク中で最も美しく、最も人気のある女性であるメイと結婚したというのに、ニューランドはエレンへの思いを断ち切ることができません。そして、メイは夫がエレンに惹かれていることに気づいているのです。この後、ニューランド、メイ、エレンの関係はどうなってゆくのでしょうか――。 「秩序」を体現する女神メイと、「自由」を掲げる女神エレンとの間で揺れ動く男の物語――私には、そう思えました。