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夜の樹 (新潮文庫)

オー・ヘンリー賞

夜の樹 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ

『最後の扉を閉めて』は、自己愛と軽口に支えられた若い男が、見えない圧力に追い込まれていく心理短編です。都会的な会話の軽さの奥で、罪悪感と孤独がじわじわと形を取り、終盤にかけて不穏さが強まります。

心理描写孤独罪悪感都会の不安短編

作品情報

軽口の向こうに、逃れられない不穏が静かに立ち上がる。

トルーマン・カポーティの『夜の樹』は、O・ヘンリ賞受賞作『最後の扉を閉めて』を含む短編集です。ミリアムや無頭の鷹をはじめ、孤独、夢と現実の揺らぎ、都市生活の不安が、端正で鋭い文体のなかにくっきりと刻まれています。

レビュー要約

  • 読者は、緊張感のある語りと不穏な余韻、登場人物の自己欺瞞を生む心理描写を高く評価している。いっぽうで、冷ややかで癖のある主人公像や陰りの強さに距離を感じる声もある。

  • 批評では、文体の切れ味と描写の密度が強みとして挙げられ、短編ごとの造形が鋭く、妖しい美しさを保っていると受け止められている。

書籍情報

出版社
新潮社
発売日
1994-03-01
ページ数
293ページ
言語
日本語
サイズ
14.8 x 10.5 x 2 cm
ISBN-13
9784102095058
ISBN-10
4102095055
価格
825 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/評論・文学研究/外国文学研究/英米文学

ニューヨークのマンションで、ありふれた毎日を送る未亡人は、静かに雪の降りしきる夜、〈ミリアム〉と名乗る美しい少女と出会った……。ふとしたことから全てを失ってゆく都市生活者の孤独を捉えた「ミリアム」。旅行中に奇妙な夫婦と知り合った女子大生の不安を描く「夜の樹」。夢と現実のあわいに漂いながら、心の核を鮮かに抉り出す、お洒落で哀しいショート・ストーリー9編。

レビュー

  • 「わざとひどいことをすること」

    この短編集中の「感謝祭のお客」の一節が心に残っている。 「世の中には、許されない罪がひとつだけあるの― わざとひどいことをすること。他のことはみんな許される。でも、これだけはだめ。」 主人公である男の子をいじめるオッドが叔母のブローチを盗むところを目撃し、親戚の前で糾弾しようとして、それをたしなめた純朴な叔母の言葉。 世の中の常識では― ブローチを盗んだオッド=悪 それを糾弾した主人公 =善 叔母さんによると― 盗みを告白し謝罪したオッド =善 わざとオッドに恥をかかせた主人公=悪 立場が逆転してしまう。 大人になった主人公は語る― 「叔母が正しいことがわかる。オッドは、いまや私より立派な人間、それどころか私より正直な人間になってしまった―それはどうしてなのか」 戦争も「わざとひどいことをする」ことだ。子どもに善悪について説明するときに、紹介したい物語だ。

  • 大したことなかった

    あまりに高評価だったので買ってみたが、大したことなかった。少なくとも私には、天賦の才のようなものは感じられず、平凡な、つまらない作品集に見えた。 ほかのカポーティの作品にはなかなか素晴らしい読後感を残してくれたものもあったが、この本はそうではなかった。

  • 満足するもの

    以前から探していたものが見つかり満足しています。

  • 早熟の天才

    早熟の天才と言われたトルーマンカポーティの短編9つを収める短編集。以前には龍口直太郎氏の翻訳によるものが同じ新潮社より出版されていた。しかし、その本に入っていた「感謝祭の客」と「クリスマスの思い出」はこの文庫には入っていない。 元々1948年にアメリカで出版された“Tree of the Night and other stories”には上記の2作品は含まれていなかった。 カポーティーは1924年生まれだから原作出版当時24歳だった。この短編集にある「ミリアム」でオー・ヘンリー賞を受賞した時は21歳だった。ニューヨークのレキシントン街に独居する老婦人に起こる夢とも現実とも分からぬ出来事を描いている。21歳の若者にどうして老女の生活や心情を描けるのか。それをミステリー仕立てで引き込んでゆく力は類稀な筆力といえる。一方、「誕生日の子供達」では、カポーティが生まれ育った南部と思われる町での、都会からやってきたらしい少女と、対照的な田舎の少年達との出会いと別れを描く。2作ともに人物描写は細やかにそして事の顛末を丁寧に描いて結末へと向かう展開は読む者を飽きさせない。 他の7作(原作では6作)もいくつかの都会と南部の町での主人公を取り巻く出来事が描かれる。 ・「夜の樹」“The Tree of the Night”(アトランタへ向かう列車に乗り込んだ若い女性) ・「夢を売る女」“Master Misery”(イーストンの町とニューヨークが舞台。女性) ・「最後の扉を閉めて」“Shut the Final Door”(サラトガ、ニューヨーク、ニューオリンズと移ってきた男の話) ・「無頭の鷲」“Headless Hawk”(ニューヨークと思しき町での男の暮らし) ・「銀の壜」“Jug of Silver”(ワチャ郡に住む少年) ・「僕にだって言い分がある」“My Side of the Matter”(ルイジアナ州ーナッシュビル線にあるアドミラルズの町に引っ越した若い男) ・「感謝祭の客」“The Thanksgiving Visitor”(アラバマ州の田舎町に住む少年の歳時記にまつわる出来事) 龍口直太郎氏の翻訳は少し硬い感じだが、川本氏の訳のは読みやすい。また、原書も読んだが、龍口氏の訳では曖昧であった箇所が川本氏の訳で納得できたところもあった。数人の方が翻訳の監修をされていたようで、自分で英語を読んだ時もよく分からなかったところが上手く訳出されていた。 日本の私小説に似たような趣があり、割と自然に主人公の置かれた場面に入っていける。しかし、その状況はいくぶん現実的ではないものもある。南部を舞台にしたものはのどかさも感じられるが、都会を舞台にしたものは殺伐としたものもある。 それにしても、このような色々な場面を様々な人物を主人公にして20代で描けるのは確かに「早熟の天才」と言えるだろう。

  • 無頭の鷹 を村上春樹訳と比べたくて。

    村上春樹訳の誕生日の子供たち にも、夜の樹 にも、同じ 無頭の鷹 が入ってます。訳の違いを読んでみたくて再読のため購入しました。

  • アメリカ南部に行ったことはないけれど…

    カポーティの中篇『草の竪琴』(1951年)を読んだついでに、この初期短篇集も読んでみました。 本短篇集には9編の作品が収められています。 ただしほんらいの『夜の樹』(1949年)は8編の短篇で構成されていて、本書にはその8篇はすべて収録されたうえで、あらたに「感謝祭のお客」(1967年)がくわえられています。また同じ新潮社からかつて刊行された龍口(たつのくち)直太郎訳の旧版『夜の樹』(単行本のみで出版)に入っていた「クリスマスの思い出」(1946年)はこの新訳版には入っていません。 本書所収の短篇では、マレビト(客人)ともいうべき存在が、変わらぬ日常のなかに生きている人(たち)のもとを訪れ、いくらかその秩序をかきまわし、そして去ってゆくという話のパタンが多く見られます。 ところで、この短篇集のなかで評者の好みはというと、大都会を舞台に大人のひんやりとした孤独の影を映しだす「ミリアム」や「無頭の鷹」より、アメリカ南部の町を舞台に少年少女が登場してくる「銀の壜」やとりわけ「誕生日の子どもたち」(1949年)です。 「誕生日の子どもたち」はつぎのようにはじまります: 「昨日の午後、六時のバスがミス・ボビットを轢き殺した。それについてはどんな感想をいったらいいかぼくにはわからない。結局、彼女もまた十歳の女の子だったのだ。それでもぼくには、町のだれもが彼女のことを決して忘れないだろうということはわかる」 この作品は倒叙的な物語構成をとっていて、ここから1年前に遡って、「ぼく」の住む南部の小さな町にミス・ボビットが引っ越してきたところからあらためて時系列に沿って物語がはじまります。 「ぼく」たちの目の前にあらわれたミス・ボビットは10歳ながらレディーのように気取った仕草や上品なしゃべり方をします。ダンスもうまく、町の男の子たちをとりこにするばかりか徐々に町の大人たちも一目置く存在となってゆきます。そのあたりの経過がいくらかのユーモアをふくませた筆致で描かれていて、楽しく読めます。 しかし1年後ミス・ボビットはハリウッドに行くためについに町を出てゆくことになり、その出発の日、6時のバスが来る頃、彼女は、歩道の向かい側にいる、自分に好意を寄せてくれていた、バラの花をかかえた男の子たちのところに駆け寄ろうとしたそのとき… こうしてこの作品でも、『草の竪琴』と同様、軽い内容に最後とても重い内容を並置ないし対置させるというカポーティの物語パタンが見られるのですが、ともあれなぜこの作品が好きなのだろうかとあれこれ考えてみると、どうやらやはり『草の竪琴』と同じく、アメリカ南部の小さな町を舞台に、少年の視点で語られる物語というところで惹きよせられる、もう少しいうと、この物語の世界になにか懐かしいような親しみを覚えるからといったらいいでしょうか(小説史的にはこうした物語の源流にはマーク・トウェインのあの『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年)があるのでしょう)。 そして、アメリカ南部などには行ったことがないのに、なぜ懐かしさとか親しみを覚えるかというと、この少年の視点で語られる、ときに不幸や悲劇といった出来事が起こる物語というのが、昔小さいころたくさん見た、少年が主人公のアメリカ製のTVドラマとか、やはり不幸や悲劇といった出来事がときに起こる、少年や少女が主人公の日本製TVアニメにあった物語の世界に近似するからでは、と思いあたります。 ちなみに、「感謝祭のお客」(1967年)では、いじめっ子オッド・ヘンダーソンについて「彼の耳は『ちびっこギャング』に出てくるアルファルファの耳のように人目をひく」という一文があり、かつて日本でも放映され人気のあったアメリカのTVドラマ「ちびっこギャング」がそこで言及されています。

  • ライオンのような菊の危険さを、考えた

    『ミリアム』 適応の失敗。孤立。不快。怒り。それらの総体としての恐怖。 完璧なスナップショットだ。 『無頭の鷹』 「愛した人間のなかに自分自身の壊れたイメージを見てしまう」(179頁)。 それなら救いはなく、「愛」する事は主人公に意味付けを与えてくれないということが、わかる。本当の自分というものに縛られることから逃れる為の戦い(188頁)。 蝶の絡まる場面の記述は素晴らしい。(185頁-) 『誕生日の子どもたち』 これが最も好みに合う。本書の他の多くの作品と共通する主題を、簡潔にあけすけに記述していると思う。 主人公は超人的だが、主体性を発揮して行動しているというような感じは乏しく、どこか眼の死んだ操り人形のような印象がある。しかも周りの人間は主人公を排斥するすることもやっつけることもできず、力を殺がれて、気がつくと主人公の勝手な規範に絡め取られている。 他の作品では幻のような形を取っていた、自己の中の他者(の如き制御できないもの)が、一人の人物の形を取って書かれていると思う。 この話は屈従と関係があると思う。 『感謝祭のお客』 結末近くのどんでん返しで、主人公は敗北を体験する。このままでは全くの人間不信に陥っても不思議ではないが、ミス・スックはその敗北さえ包容し、回収してしまう。 思ったのだが、これが、他の作品においても、明示はされないにしても隠れた要として、著者の筆を規定していないだろうか。 というのは、そうでないなら、情性欠如者の恨み言のようなものになってしまって、これほどの黒い豊かさを持てなかったのではないかと思うからだ。 とはいえ、この作品は、心温まるというような生易しいものではないと感じる。「オッド・ヘンダーソンは、いまやわたしより立派な人間、それどころかわたしより正直な人間になってしまった-」(326頁)。こんなことを、有毒な方向に逸れずにしかも自分自身できちんと受け止め消化するということは、どれほど誤りやすく難しい行いだろう。 ライオンのような菊が危険だというのは、豊かな謎だと思う。 トルーマン・カポーティ『夜の樹』 新潮文庫 カ-3-5 平成六年二月二十五日 発行 平成二十三年七月五日 二十二刷改版 平成二十四年六月五日 二十三刷

  • 哀しさと温かさ

    何だか息苦しくなった。登場人物たちは皆、何かに囲われていて、そこから逃れられずにもがいている。裏表紙の紹介文には「お洒落で哀しい短編集」とあったが、正直哀しみばかりが胸を打った。 それでも、最後の短編「感謝祭のお客」では、主人公の親友である老婆の温かさにほっとさせられた。良い構成。

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