作品情報
Disgrace (『恥辱』) は、受賞作として読み継がれている。
Disgrace (『恥辱』) は J. M. Coetzee の受賞作として整理できます。
書籍情報
- 出版社
- 早川書房
- 発売日
- 2000-12-01
- ページ数
- 290ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784152083159
- ISBN-10
- 4152083158
- 価格
- 3579 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/評論・文学研究/外国文学研究/英米文学
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レビュー
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政治的力学に翻弄され苦悩する人たち、だがそれだけではない
この小説を読んで確実に言えることが、「政治的力学に翻弄され苦悩する人たち」を描いているという点。だが、それだけではない。それだけではない何かが、9割を占める。そしてその何かは、理解しようとするようなものではない、解釈を与えられるようなものではない。教訓は引き出せず、我々の人生に決定的な影響を与えるはずもない。 スキャンダルで職を追われる大学教授、土地の権力者の束縛から逃れられないレズビアン、犬の殺処分を請け負う獣医もどき。彼らは弱者の象徴として描かれるが、しかし希望が失われているわけではなかった。彼ら自身が下す選択はいずれも効力があったし、等身大で、現代に生きるとはまさに彼らの状態を指すのだろう。 我々は読書を通じて垣間見えた彼らの希望の一欠片を感じとり、傑作に類される小説に出会えたことに感謝すると共に、この物語を書き上げた著者にただ敬服するのみである。
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支配が覆るとき、「恥辱」は免れないのだろうか
若干の滑稽さもありつつ、全体としてはやるせない荒涼とした感じの小説である。雑然とした読後感は、まるで読者の一面的な解釈を拒否しているかのようだ。ストーリーは、アパルトヘイト政策が終わって間もない南アフリカを舞台として、主人公である52歳の白人男性が大学教授の地位を失うにいたる顛末と、その後移住した田舎の農園で自分の娘と共に事件に巻き込まれる顛末、二つの出来事を中心に展開する。タイトルの「恥辱」は、前半で主人公が味わう恥辱、後半で主人公と主人公の娘が共に味わう恥辱、その二つを指しているというのがシンプルな解釈だ。だが、本当にそうなのか、それほどシンプルではない雰囲気が、この小説には漂っている。 都市を舞台にした前半と、田舎を舞台とした後半は様々な面で、全く異なる様相を呈している。清潔で機能的で整えられた都市生活に対して、粉塵や動物のにおいに満ちた田舎生活は牧歌的なものとは程遠く、命の危険から来る不安と緊張に満ちている。主人公の仕事は、大学教授という知的労働から一転、犬猫の殺処分を手伝う肉体労働のボランティアへと変化する。若い女性の父親から非難される立場から、自身が父親として苦しむ立場へ。関係を持つ女性は、完璧な身体を持つ20歳の美人から、「美しくあることに励まない」中年女性へ。これは、主人公の転落と呼ぶべきだろうか。 一方、都市生活では主人公の閉鎖性や周囲との「ズレ」が目につくのに対し、田舎生活では娘を愛する父親として常識的な言動が中心となっていく。大学教授時代、彼が研究する200年前のロマン派詩人に学生は興味を示さず、元妻と主人公、諮問委員会メンバーと主人公のやりとりは、全く噛み合わない。田舎に行ってからは、娘と対話する姿勢が見られ、娘以外の関係者ともコミュニケーションが成立する。コミュニケーション学部で教鞭をとりながら、周囲とコミュニケーションがとれない主人公の皮肉さ、偏屈ぶりや変人ぶりは、田舎では影をひそめる。切羽詰まった状況の中で、主人公は社会性を取り戻していく。と同時に、ロマン派詩人バイロンとの向き合い方を通じて、主人公のシニカルさやリアリストぶりが強調される。 むしろ、変人に見えるのは娘の方だ。とんでもない事件で大きく傷つきながら、その運命を引き受けるのはなぜだろうか。娘は事件の首謀者である黒人の使用人が提示する不利な条件をのんで、農園の生活を続けることを選ぶ。娘がなぜ自虐的な決断をするのか説明はなく、父親ならずとも不可解で納得はできない。 娘が何度も「これは私の個人的な問題だ」と強調することによって却って、娘の決断が社会的な問題意識に根差していることが暗示される。父親が解釈したように、娘は恐らく暗黙的に、先祖が犯した過去の過ち、つまり白人による黒人支配の歴史という十字架を背負おうとしている。田舎生活では、動物愛護活動が重要なテーマとして現れ、娘は、もっと上等な生活などなく、あるのはこの生活だけだ、人間の特権を動物と分かち合うべきだ、と主張する。人間による動物支配は白人による黒人支配のメタファーであり、娘は新生南アフリカで生きる覚悟を決めた若年世代の象徴かもしれない。一方で主人公の転落あるいは転身は、アパルトヘイト政策終了後の白人=支配階級の変動とも読み取れる。 この小説を読んで改めて、南アフリカの特異な位置づけに思いが至った。考えてみれば、植民地支配で先住民を差別的に扱った長い歴史の後に、マイノリティのまま先住民と同権になるというのは、かなり不安で憂鬱な状況である。しかも、先祖の出身地である場所から数千キロ隔たった、隔絶した土地で。元支配階級の人々は、今や孤立無援で、これまで差別してきた相手に取り囲まれ怖れおののいている。娘は自身の無力を認めて従うしかないと諦めており、主人公は自身をいずれ屠殺される「犬」の立場に重ねている。彼らが置かれている状況は、南アフリカの白人の状況そのものだ。個人としては不条理だが、歴史の中ではそうとも言い切れない。その恥辱を、主人公は引き受けるべきなのだろうか。この図式、主人公の置かれる不安的な状況は、「グローバルサウス」が国際政治の中で影響力を増している現在、先進国クラブの私たちにとって決して他人事ではない。
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徹底的に突き放した
ストーリー性よりも、表現が読ませる。動物愛護家を、娘の友人を、落ちぶれた自分を、徹底的に突き放した表現で、事あるごとに読むものを立ち止まらせる。胸の中の嵐とは別に何も変わらない近所の人との会話、何度読んでも引き込まれる。
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「22」
作品単体での価値は大きくないが、社会と比較するときに、文学性が花を開くような作品。 日本人からして、西洋的な哲学と、南アフリカ的な暴力の混線はなかなかその深さを飲み込むことはできないだろう。 「22」だけであっても、この作品は成立したかもしれない。
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面白かった♪
でも好きな小説ではなかった♪
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不安の時代の生活
ハッピーエンドに
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「南ア白人/黒人」の「自己変革」を描く傑作
本書が出版された1999年時点の南アフリカを描いているが、登場人物の人種が明かされないのが本書の第一の特徴だ。特に主人公デヴィッド・ラウリー准教授(白人)と関わる女性たちが白人なのか黒人なのかで、読みが全く異なってしまう。物語に重層的な深みを与えるためのトリックだろうが、南アは「遠い世界」と考えがちな日本の読者には、読みのレベルでつらい。 デヴィッドと関係する女性たち。ソニアはムスリムと明かされているので黒人と判る。メラニーはどうか。容姿は「小柄で細身、短く刈った髪は黒……大きな黒い目」とあるのみで、よくわからない。池澤夏樹はある書評の中で「メラニーMelanie」はギリシャ語で「黒」を意味するという。彼女が黒人であれば物語の枠組みはすっきりする。ではベヴ・ショウは?「ずんぐりと小柄な気ぜわしい女で、短く刈り込んだ縮れ髪、黒ぼくろが点々とし、首がやけに短い」、と描かれる彼女も黒人か。 そう仮規定して読み進むと、物語の前半と後半が「逆さま」の構図になっていることが判る。前半は、デヴィッドが黒人学生のメラニーに訴えられる「セクハラ事件」。後半は娘のルーシーが黒人三人組に犯される「レイプ事件」を中心に据えて進む物語である。 深刻な話なのに語りが「軽薄」と言うほど明るいのも本書の第二の特徴だ。「この小説は「恥辱」ではなく「自尊」を書いている」という読書仲間の批評に感心させられるが、そうでもしなければ書き続けられない内容を孕んでいるからだ。黒人が白人を犯すという記述は、南ア文学では初めてで、ほんの10年前までは「アパルトヘイト」政策のもとで黒人を合法的に差別し、その後、多分に外圧によって人種平等を「観念的」に受け入れた多くの白人読者には耐えられないだろう。が、南アの時代の転換をこういう形で示したクッツェーの「革命的思考」は驚嘆に値する・ 第三の特徴はデヴィッドとルーシーによって浮き彫りにされる、白人/黒人の対比を通して示される成長=自己変革である。 その一つはデヴィッドの「性」の問題。彼の男性優位的な性嗜好は白人優位主義の残渣と重なる。好む女は決まっている。美人で従順な女性。自分を(男性に)美しく見せようと努める女。ソラヤにしろ、メラニーにしろそういうタイプの女たちだ。二人の白人妻と離婚したのも、フェミニズムの洗礼を受けて主張を露わにする女を嫌ったと、二度目の妻ロザリンドとの会話からも読める。デヴィッドはロマン小説に出てくるような、男にとっての「理想の女性」を追い求めてきたと言えるが、それは彼の男性性が南アという差別制度の中で醸成され肯定されてきたに過ぎなかったのだ。そういう彼が、レイプ事件の混乱のなかで、肉体的魅力のないペヴと結ばれる。ここにはアフリカに伝統的な母系社会と重なる部分があるのだが、デヴィッドにとって、これまで見えなかった女性性というものが、ようやく見え始めたということではないだろうか。世の男が女によって救われるように、「デヴィッド・ラウリーは救われたのだ」。 もう一つは、ルーシーとペトラスの対比。アパルトヘイト政策が廃止されてこの国の白人支配が終わり、黒人が政権を握ったという事実をリアリスティックな象徴として、映し描いたという点である。ルーシーには白人がこの国で生き延びてゆくにはどうすべきかが解っている。ペトラスも逆の意味でこれを理解している。黒人が国の主人となった今、白人を庇護してゆくのはこの方法が一番だと。 白人優位時代の残渣を洗い流せないでいるデヴィッドは、ペトラスとの関係を、はじめは「ペトラスの手伝い、か。気に入った。いいじゃないか。この歴史の皮肉、ところで、労働に対して賃金は払ってくれるのかな」と恥辱がらみのアイロニーを込めて言うのだが、最後には暴力がらみで事実を納得させられる。ペトラスがレイプ問題に関わっているかどうかは、ルーシーの強い拒否で追求されない。ペトラスだって、長年の小作生活から身を起こし、自分の土地を持つまで至ったのだから、とおりいっぺんの黒人ではない。まじめに働き、まじめに「悪だくみ」に精も出したのだろう。「そんなこんなにもかかわらず、彼(デヴィッド)ペトラスといると落ち着く。 ルーシーは、このすべてをわたしの個人的な問題として引き受けると言うが、これはルーシーが南ア白人の「罪の」総体を引き受けると言っているのだと、読める。 物語の終末は、レイプ犯の子供を宿していると知ったデヴィッドが「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」というせりふで終わる。デヴィッドが手がけている、老いたバイロンとテレサのオペラの制作も、犬の安楽死事業も、この文脈で読み解けるだろう。 小説はオープンエンディングで幕を閉じる。この物語の未来が「明るいのか暗いのか」はなお判らない。しかし、ルーシーにしろ、ペトラスにしろ、否、南アの黒人たちと白人たちの未来を手探りする断固とした意志に各種したい。
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名作の玉に瑕
既にして古典と呼ばれるべき名作。カフカが『訴訟』の最後に否定的なニュアンスで記した「犬のように!」を「犬のように。」「そう、犬のように。」という淡々とした対話へと置き換えることで、ポストアパルトヘイト時代の南アフリカという具体的な歴史的文脈を踏まえつつ「人間らしく」あるいは「犬のように」生きるとはどういうことであるのかを問う、世界文学であると言えるだろう。翻訳も非常に読みやすいが、玉に瑕は単語一つ一つへのこだわりがあまり強くないように思われる点。せめてタイトルでもあるdisgraceには本文中でも一貫した訳語を充ててほしかった。とりわけデヴィッドが動物愛護クリニックで犬の死について考える部分(文庫版221ページ)に「まるで、彼らまでが死の屈辱を味わっているかのように」という一節があるが、ここで「屈辱」と訳されているのはdisgraceである。デヴィッドと犬の関係の重要性を考えるなら、ここは当然デヴィッドの場合と同様に「恥辱」と訳されるべきだっただろう。またデヴィッドがアイザックス家を訪れミスター・アイザックスと話す場面(文庫版266~267ページ)でデヴィッドが三度も繰り返しdisgraceという言葉を用いているが、なぜか二つ目と三つ目は「屈辱」と訳し替えられている。訳者は「屈辱」という訳語が好き(?)なのか、disgraceだけでなくshameもdishonourもhumiliatingもひとしなみに「屈辱」と訳しているが、この作品の主題とも関わる部分であるだけにもう少し細心な訳語選択があれば、と残念でならない。
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