献灯使 (講談社文庫 た 74-4)
大災厄後、鎖国状態となった近未来の日本を舞台に、健康な高齢者と弱く生まれる子どもたちの逆転した世界を描く表題作を中心とした短編集。義郎と曾孫の無名の日常を通じて、環境崩壊、言語の変容、世代間の受け渡しを寓話的に問う。
作品情報
衰退した世界のなかで、弱い子どもと老いた保護者の時間が不思議な明るさを放つ。
『献灯使』は、表題作を含む短編集として日本語で刊行され、英訳版『The Emissary』が全米図書賞翻訳文学部門を受賞した。外来語も移動も制限された未来の日本で、身体の強さを保つ老人と生まれながらに弱い子どもたちが生きる。災厄後の社会を描きながら、言葉の遊びと転倒したユーモアによって、終末の物語に軽さと希望を忍ばせている。
レビュー要約
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書評では、震災と原発事故後の未来を予言的に描く想像力の鋭さが評価されている。暗い設定でありながら、寓話としての強度と言葉の異様な手触りが印象を残すとされる。
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英語圏の紹介では、死や衰退を扱いながら軽やかで奇妙な明るさを持つ作品として読まれている。無名の優しさと義郎の不安が、ディストピアを単なる絶望にしない点が注目される。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2017-08-09
- ページ数
- 272ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.8 x 1.1 x 14.8 cm
- ISBN-13
- 9784062937283
- ISBN-10
- 406293728X
- 価格
- 715 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品
大災厄に見舞われ、外来語も自動車もインターネットもなくなり鎖国状態の日本。老人は百歳を過ぎても健康だが子どもは学校に通う体力もない。義郎は身体が弱い曾孫の無名が心配でならない。無名は「献灯使」として日本から旅立つ運命に。大きな反響を呼んだ表題作のほか、震災後文学の頂点とも言える全5編を収録。 全米図書賞(翻訳文学部門)受賞! 大災厄に見舞われ、外来語も自動車もインターネットもなくなり鎖国状態の日本。老人は百歳を過ぎても健康だが子どもは学校に通う体力もない。義郎は身体が弱い曾孫の無名が心配でならない。無名は「献灯使」として日本から旅立つ運命に。 大きな反響を呼んだ表題作のほか、震災後文学の頂点とも言える全5編を収録。
1960年、東京生まれ。小説家、詩人。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学修士課程修了。82年よりドイツに住み、日本語・ドイツ語両言語で作品を手がける。91年、「かかとを失くして」で群像新人文学賞受賞。93年、「犬婿入り」で芥川賞受賞。96年、ドイツ語での文学活動に対しシャミッソー文学賞を授与される。2000年、『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞を受賞。同年、ドイツの永住権を取得。また、チューリッヒ大学博士課程修了。11年、『雪の練習生』で野間文芸賞、13年、『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞をそれぞれ受賞。18年、本書『献灯使』で全米図書賞(翻訳文学部門)受賞。近著に『百年の散歩』『地球にちりばめられて』がある。
レビュー
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ディストピア、あるいは、すばらしき新世界。
全米図書賞の翻訳部門の復活第1回を受賞されたと聞いて読みました。おもしろかったです。 多和田葉子さんの文章を読むのは、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』(岩波文庫)の解説以外でははじめてだったのですが、とても詩的な洗練された文章で、音楽に浸るように読めました。 独特な比喩の使い方や、読み方は同じなのに漢字を変えることで意味をずらす、ダジャレとはまた違った語感も新鮮でした。 (救助隊→救女隊など) 舞台は近未来の日本で、老人はたくましく元気に生きているのに、若者は若くあるほど体が弱く、歯も骨ももろく、どこか世界がゆっくり滅びかけているようなのですが、 世界は日本を含めて各国は「鎖国」しており、世界の全体像は誰にもわからない。 わたしは読みながら、多和田さんがドイツ在住だと思い出し、ここで語られる「鎖国」とは今のEUの社会問題が反映されているように思いました。 作中では、沖縄は農業の中心地で、本州からの移住を希望する者が後を絶たないと書かれた後に、しかし移住許可の条件が厳しいとあり、どうしても今のフランスやイギリスを想起させられます。 (あるいは本当に未来の日本の姿なのかも・・・) でも、その日本の少年・無名(むめい)は、体が弱く、曽祖父が毎朝作ってくれるオレンジジュースを飲むのさえ一苦労だけれど、好奇心は旺盛。想像力も豊か。 物語の後半では、世界地図を見て、それを自分の体のように感じてしまうほど。 そして、名もなき子という意味の名の彼、無名は、夢か、あるいは未来の幻視か、やがて世界に旅立つために選ばれた『献灯使』になる。 物語はその旅立ちの前で終わります。 無名は果たしてその後、日本と切断されて久しい未知(世界)とどのように遭遇したのか。とても気になりました。 (でもたぶん、好奇心に溢れる彼になら、大人の心配など他所に、この世界はみずみずしい体験を与えてくれる鮮やかな新世界に映るはず) まとめると、ディストピア的な未来と、どこか古事記のような土着的な感覚のブレンドされた、氷の透き通るように美しく、ほの暗く哀しく、幻想的な作品でした。 多和田さんの他の作品も読んでみようと思います。 (あと個人的なことなのですが今年は、この『献灯使』や町田康『告白』、赤坂真理『東京プリズン』、高橋弘希『送り火』、上田岳弘『私の恋人』など素晴らしい作品に出会えました。日本の文学もまだおもしろいです)
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多言語話者による貧困社会の実相を描ききった作品
ものすごくリアルな感覚と豊かな言語感覚がシナジーするとこういうデストピアになるんだと思う。外から日本を見ていると本当に貧しいが、国内にいると余り意識されない。2025年8月新国立劇場で上演されるナターシャの脚本を書かれるとのことで、その下勉強の為に読みました。
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表現が斬新ですね
今回初めて手にした作品は、これまでの作品と比べて良くも悪くも表現方法が斬新というか・・余りにも突飛過ぎる所もあると私は感じました。どれ程の未来を想定しているのか?孫と祖父さんとの関係と祖父さんの若い頃の時代内容だと近未来だと感じますが・・孫の身体の内容だと近未来とは感じない・・少なからず数百年未来と言う感じがするので、読みずらい。死人が鳥化するとか?ただ、作品の中で「人類は地球上の癌細胞だ」と言う表現には同意する。全体的には近未来に起こる可能性がある内容・・最後の方に動物同士の会話には作者の思想ならぬものが見え隠れしているような気がした。
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逆さ鏡に浮かびあがるわれらが世界
この日本語版を読んだのは、当初読んだ英語翻訳版(米国のNational Book Award受賞)がどうにもぴんと来ず、また海外読者のレビューにも、NYT, The New Yorker 等にある書評にも納得いかないものであったことがきっかけでした。それが2年以上前のこと。内容的には、鎖国政策や戦中の外国語禁止策等この国で実際起こった事実、はたまた原発事故後の、更に二十数年ほどさかのぼった皇室にかかわる「重大な事象」を巡るノーマ・フイールズがその著で詳細に語った滑稽なまでの政府、マスコミの対応、そして民間側の徹底した自己規制への知識、実感が無い外国人読者には荒唐無稽のデイストピア小説等ととられるのも無得なるかな。「けんとうし」という題名への含意、また筆者独特の、且つ平安時代から繋がる日本文学の特徴でもある言葉遊びを翻訳するのは不可能に近い、翻訳文学,およびそれにかかわる文学賞の限界を感じさせる作品だと思いました。(少なくとも審査員の方々は日本語版を読んだうえでの翻訳版評価だとは想像しますが。) 英語版、日本語版を読んだ直後の感想は、日本の読者にとっても一筋縄ではいかない作品だなというものでした。当初は私も福島原発事故への政府の対応、マスメディアの自主規制など実際に経験したことを真っ先に連想したのですが、何度か読み返すうちに、単に原発事故の問題より、その根底にある、地方にリスクを押し付け都会が利益を享受するという非対称構造等、現代社会のより広範な問題について考えさせられるようになりました。20世紀の終わりから我々が浸ってきた、人の物理的移動も含めたグローバリズム、民営化、インターネットによる自由でより開かれた社会による価値観の多様化という政府、企業による上からのバラ色のお題目とは裏腹の、東京へのカネ、ヒト、情報の一極集中、地方の切捨て、ひたすら富、若さ、健康長寿そして自己実現(?)を希求しなければならないという価値観の暗黙の強制、コピーライターが作る怪しげなキャッチコピーやメデイアに現れる専門家に従ってのトレンド、コスパを求めるマスの中の一員としての商品、サービスの消費行動、デジタル化による情報の集中を通じての管理社会という現実。 未曾有の災害はこのような矛盾を見つめ直す絶好の機会だったはずですが、いつものように政府による広告、メデイア業界を総動員しての様々な火消し活動により根本的問題に目が向けられることは全く無く、日々の生活に追われる人々はプラトンの寓話にある洞窟の中にとどまり、これまでの流れは寧ろ加速したように思われます。本著は主人公を現実とは一見全く逆転した世界に置くことにより、以上述べたような我々が住むことを余儀なくされてきた世界の真実を逆に際立たせてくれるように思います。 その中でも言葉というものが、いわゆる非常時の中、あたかも大戦中の大本営発表を踏襲するかのように深刻な事態の矮小化のために徴用され、いかに捻じ曲げられ悪用されてきたか、現実を直視し前に進むためにも言葉というものがどれだけ大切なものかということを作中の言葉狩り、外来語の禁止、自主規制という事象により思い出させてくれるようです。海外貿易が禁止された中でも数少ない許可された品目が言葉であるにもかかわらず、破壊されつくした日本語には需要がないというのは象徴的な設定です。言葉をさまざまな圧力の中でどうやって守っていくか。日本語、ドイツ語を問わず独特の感性、こだわりを持つ作者が海外から冷静な目でこの国を見つめ、日本語空間という閉ざされたバブルの中で知らず知らずのうちに言葉の劣化に慣らされてしまったわれわれ読者に与えてくれたひとつの大きな命題と思います。 読み進むうちに終戦直後に被爆地の子供たちが経験した健康調査という名の人体実験的処遇、米国大気圏核実験地の周辺で行われた乳歯による放射線測定プロジェクト、はたまた、カズオイシグロのNever Let Me Goにあるクローン人間同士の交流、献体というテーマなど様々なことが想起されます。 とりわけ、百歳を超えても健康体の老人と対照的に頭脳明晰ながら着実に肉体が衰えてゆく曾孫との関係は、「苦海浄土」に登場する水俣病の胎内汚染により言語もおぼつかない孫の杢太郎少年の将来を案じながらも彼の中にに言いようのない神々しさを見出す老漁師との関係を思い起こさせます。石牟礼道子が水俣病と共に生きる人々の姿を通して描き出した、戦後日本の経済成長の中心としての東京とは対極にある失われてゆくこの国の原風景たる自然に抱かれ海の恵みと共に生きてきた地方の人々の美しいくらし。本作品では東京が価値の求心地ではなく災厄の中心としてのグラウンドゼロとし、主人公をその周縁に置く設定からも、著者が苦海浄土を意識していたことが容易に窺えます。 初めて英語版を手にしてから3年以上経ち、その間に疫病、ヨーロッパ情勢によりいわゆる先進国ではなにやら現実の世界そのものが本書の仮想世界に近付いてきた感があります。感染症予防、気候温暖化抑制という絶対的命題の下、本作に著されているような移動の禁止、言論の監視や検閲、異論の排除、はたまた食、健康管理に関わる個人の選択権への干渉がマスメディア、ソシアルメデイアプラットフォームを利用してトップダウンのかたちで顕在化し、さらには昨年から欧州の一部ではドストエフスキー等の著作が焚書の憂き目にあいチャイコフスキーの作品を演奏することが禁止されたり、あの今世紀最高のソプラノ、アンナネトレプコが母国のリーダーを批判しないという理由で自由と民主主義の庇護者を自認する国々の名だたるオペラハウスから出演禁止となるという少し前には想像もできなかったようなことが現実化してきました。作者の住む国では排出二酸化炭素量の削減を最大の公約としてきた政府が政治的理由からこれまで忌み嫌ってきた石炭火力発電を推進するというシュールな現象が起きています。日本語の言葉遊び等の点はともかく、少なくともストーリー設定、特に我々が当然のように依拠してきた近代西洋文明、価値観が決して普遍的なものではなくいかに危ういものであるかについては、不幸なことですが、海外読者にも本書がより現実感をもって受け止められる環境になったのではと思います。 世の中が目まぐるしく変わる中、数年後に本書を読めばまた違った思いを持たせてくれるのでは、という期待を抱かせてくれる奥深い作品だと信じます。
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とまどう。
なんともグロテスクな印象のディストピア(荒廃した現在と希望のない未来)の物語と、駄洒落のような言葉遊び(そもそも作品名「献灯使」も遣唐使の文字の置き換えだ)のズレに、どう評価したものか宙ぶらりんになる。著者は、読者に対して登場人物と同化したり感情移入したりすることを望んでいないのだろう。普通の読書の仕方とは違った読み方が求められている気がする。 このドライな突き放した日本の描きかたは、日本から離れて暮らす著者ならではのものだと思う。 英訳タイトルは「The Emmisary」で、上の言葉遊びは消えてしまっている。アメリカで図書翻訳賞を取ったというが、どんな訳だったのだろうか。
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言葉遊びの面白さ
複数の収録作に言葉遊びが用いられている。表題作が最も顕著だが、その他の作品にもちらほらと。 ある単語を漢字の当て字で表現したり、漢字を解体して偏を取り去ったり。かなり高度な言葉遊びと見た。いずれも巧みだ。それに、どの言葉遊びにも必然性が感じられる。 収録作は、おおむねディストピアをテーマとしたもの。高齢者が死ねなくなり、逆に若い世代が病弱になったり、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故ののちふたたび原発事故が発生した世界だったり、人類が滅亡したあとの動物たちの話し合いだったり。物語性はいずれも希薄に思えるが、もちろん、しっかりとしたストーリーにもなっている。 こうした世界になぜ言葉遊びが援用されるのだろうか。それはおそらく、世界認識、人間における対象の認識を問うているからだろう。単なる添え物で言葉遊びを取り入れているのではない。テーマとあまり関係のない言葉遊びを連ねているのでもない。いずれの言葉遊びもテーマに高い親和性を持っている。 それをどう読み取るかだが、意味は敢えて問わないほうがいいだろう。それよりも、言葉遊びがもたらす一種の不条理性に身を委ねるのがいいのではないか。わたしたちはふだん、冗談交じりに言葉遊びをもてあそんでいるが、それは対象を違った仕方で認識させようとするものだ。たとえば、「資格がなくても互角に勝負できる」というのがある。これは、ある業種で働く際に、公的資格がなくても働ける業種だから、裁量によって他の業者と渡り合えるという意味だ。このように、「資格」という言葉の意味をある程度異化していることになる。もちろん、この作品集に収められた言葉遊びのほうがはるかに高度なのだが。 ディストピアでは、人々は世界認識を新たにしなければならない。描かれている世界は尋常ではないのだ。そのことを想起させるために、描かれている世界を通常世界とは違うかたちで認識させるために、言葉遊びは援用されている。添え物のように読み飛ばすなかれ。どの言葉遊びも貴重である。
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反原発は好きになれない
未来起こりうる状況に基づく小説だが、思想的に共感できないと面白くなくなる。 特に反原発的な発想は、原発再評価の機運が上がる最近のトレンドを考えると、首をひねらざるを得ない。こういう文明論的な視点を持つ女性作家は、特に日本人では珍しいので希少価値はあるが、十分に考え抜かれている視点とは思えないのである。 結論として私はあまり評価できない。
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なぜこの作品がそれほど話題になるのだろうか?
〇 「献灯使」は、外国で何かの賞を受けた小説として、またディストピア小説として、たいそう話題になったので楽しみにして読んだ。 〇 しかしながら、なぜこの作品がそれほど評価されるのかわからない。日本の将来を示唆するものであるからか? 現代の社会のどこかにこのような状況に発展しかねない萌芽があるからか? かかる悲惨な状況の下での主人公の少年やその祖父の行動に見るべきものがあるからか? 〇 そもそもこの作品は日本の将来(のひとつの可能性)を描いているのか、あるいは日本に限らず人類の将来の可能性を描いているのか。それさえわからず途方に暮れております。