土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)
イギリス東海岸を歩く旅の記録を軸に、帝国主義の記憶と崩壊の気配をたどる散文。写真、引用、連想が重なり、風景の細部から歴史の重さが立ち上がる。
作品情報
歩くたびに、風景の底から歴史の影が立ち上がる。
東イングランドの海岸線を歩く旅のあいだに、博物学、文学史、戦争の記憶、崩れゆく建物や町の気配が連鎖していく。紀行文でありながら、失われたものの痕跡を拾い集める文学的な考古学として読むことができる。
書籍情報
- 出版社
- 白水社
- 発売日
- 2007-08-01
- ページ数
- 289ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784560027318
- ISBN-10
- 4560027315
- 価格
- 4012 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/評論・文学研究/外国文学研究/ドイツ文学
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レビュー
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復刻版
世界一素敵な作家の一人でもったいなくて時間のある時ゆっくり精読している。復刻に本当に感謝。この手の本は絶版になると転売の標的になって一時期一万円以上を越える値がつけられたこともあります。図書館から借りて読むのが正解ですが手元に置いておきたいものもありますからねぇ。
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造詣された新しい日本語
本を読む楽しみの一つが、「心地よい文体」との出会いだ。 「こんな風に自分も書きたい」と思わせる筆の運び。思うに「文体」とは、書き手の思考と感性の流れを指先に転移したものだろう。だから、「どう書くか」は、「何を書こうとするのか」で決まる。思考や感覚が多様であるのなら、文体も多様であるはずなのだが、逆に、文体を課すことによって、思考や感性の流れが制御されることもある。 「文体を課す」と言えば、優れた翻訳作品には、訳者が創り出した日本語の新しい文体がある。その新鮮さと、伝統的な日本語にはない「美しさ」、「心地よさ」、あるいは「巧みさ」に驚く。外国語というフィルターを通して洗練された言葉の流れ。 このゼーバルトの作品も、原文の持つ芸術性が、穏やかで、心地よい日本語文体として再現され、印象が深い。造詣された新しい日本語の創出と思う。 「1992年8月、シリウスの日々(夏の盛り)が終わりに近づこうというころ、私は大きな仕事をひとつやり終えた後に身内にひろがってくる空虚をなんとか逃れられはしまいかという思いから、イースト・アングリアのサフォーク州を徒歩でいく旅に出た。この望みはたしかにあるところまではかなえられた。海辺から内陸にひろがる、ときには人家のほとんどない地域を何時間、何日と逍遥したその当時ほど、束縛から解き放たれた感覚を味わったことは稀だったからである」(p7) この小説は、著者である「私」が、イギリス南東の海岸部を徒歩で旅行した紀行文として書かれている。特段、何かの出来事がエスカレーションに描かれているわけではない。ドラマチックな物語の展開はない。ただ、歩くように自然と言葉が流れ、その流れの快感に読者は酔う。 音楽に楽章があるように、この紀行文は、旅の訪問先で遭遇する自然や人々とのエピソードと、「私」に沈殿する断片的な記憶から成っている。旅とは、空間的な異次元との出会いでありながら、同時に時間を遡行する歩みでもあるのだろう。そしてこれらを呼び起こし、統合したこの紀行文は、人の人生を描き出す鏡でもある。 「記憶は幾歳月もわたしたちの身内にあって眠り、ひそかに増殖を続け、いつかほんの些細なきっかけで呼び覚まされて、奇妙な方法でわたしたちを生に対する盲(めしい)にするのだ」「かくも不意を打って押し寄せる追憶にむきあうには、ただ書くことによるしかない」(p241)
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世界の黄昏に居合わせているかのような、・・・
これまでの、他のゼーバルト氏の著作を読み続けて来て、著者独特の重苦しい、何とも薄暗い、然し惹かれてやまない雰囲気に魅せられてきましたが、「土星の環」も、その例に漏れず、時に何とも息の詰まりそうな薄暗い雰囲気がありました。著者とおぼしき”私”が、イギリスの海沿いを歩いて!旅しながら、しばしば思索やエピソードがとめどなく広がっていって、果たしてイギリスの海沿いを旅しているのか、歴史、と言うより時間の蓄積?の中を旅しているのかが、判らなくなってきます。 それら数々のエピソードや思索の中で、自身が特に印象深く感じることの一つに、時間に対する思索。例えば147ページの”仮に時間というものがあるならば、どれだけの時間が残されているのかを知らない。”・・・仮に時間というものがあるならば・・・とは一体何と言う表現でしょうか?!このような思索が、著者の遺作「アウステルリッツ」の”死者は時の外にいます。”というような言葉へと繋がっていくように感じられます。 今一つゼーバルト氏の著作によく出てくる”蛾”あるいは”蚕蛾(かいこが)”にまつわる様々な思索やエピソードに、私はとても惹かれてきました。その様々なエピソードの間に”蛾”の写真や、百科事典から抜き出した詳細な図が載っている所を眺めていると、何とも不思議な気分になります。私自身、最近よく、壁や窓などにじっとへばりついている(というよりも、佇んでいる、と表現したくなります。)蛾を見かけると、彼(=蛾)は、一体そこで何を考えているのだろうか、この世界をどんなふうに感じているのでしょうか、と想ってしまいます。 この延々と連なる散文の中にひたっていると、何か、世界の黄昏に居合わせているかのような、それでいて、胸騒ぎが静まるような、そんな印象を持ちます。
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流れていく歴史
生の平衡感覚は、過去と未来に伸びてゆきます。 小さな点と点の間を埋めるための時間が、 西から東へ、過去から未来へと流れてゆき、 行き着く果てを捜し求めているのだろうか。 栄華と荒廃の描写は、田舎出身の僕にひどく心を打ちつけます。
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滅びゆくものへの、静かで共感に満ちた眼差し
題名からするとSF小説のようだが、副題のとおり、語り手の「私」がイギリス南部のサフォーク州を徒歩で旅する、いわば「旅行記」である。しかし綴られているのは、ゆっくりと朽ち果てつつあるかような地で「私」が何を見て何をしたかではなく、そこから何を思い何を連想したか、である。ホテルで見たTV番組から、ジョウゼフ・コンラッドに話が飛び、中国皇帝が乗るはずだった列車が走っていた鉄橋を見て、中国清朝の最期に想いを馳せる、といった具合だ。滅びゆくものに対する眼差しは、静かで共感に満ちている。 土星の環の正体は、惑星に近づきすぎて潮汐力によって破壊された衛星の欠片であるらしい。それが遠目には環の形に見えるのだということだ。同様に、次から次へと紡ぎ出される断片的なエピソードは、一見つながりがないようだが、しかし微かに絡みあっていて、全体として見ればある一つのテーマに沿って展開しているかのようだ。それがこの『土星の環』である。