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チボの狂宴

社会における個人の自由に関するエルサレム賞

チボの狂宴

マリオ・バルガス・リョサ

ドミニカ独裁政権の崩壊を、帰郷する女性の記憶と並走させて描く長編。

政治小説記憶独裁ラテンアメリカ暴力

作品情報

暴君の時代と、消えない記憶がひとつの物語に重なる。

緊密に組まれた視点の切り替えで、権力の暴力と個人の傷が同時に見える。バルガス・リョサの長編の中でも、歴史の圧力を強く感じる作品。

書籍情報

出版社
作品社
発売日
2010-12-25
ページ数
544ページ
言語
日本語
サイズ
14 x 3.5 x 19.5 cm
ISBN-13
9784861823114
ISBN-10
4861823110
価格
1540 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品/スペイン文学

1961年5月、ドミニカ共和国。31年に及ぶ圧政を敷いた稀代の独裁者、トゥルヒーリョの身に迫る暗殺計画。恐怖政治時代からその瞬間に至るまで、さらにその後の混乱する共和国の姿を、待ち伏せる暗殺者たち、トゥルヒーリョの腹心ら、排除された元腹心の娘、そしてトゥルヒーリョ自身など、さまざまな視点から複眼的に描き出す、圧倒的な大長篇小説! 2010年度ノーベル文学賞受賞!

マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa)1936年ペルー生まれ。ラテンアメリカ文学を代表する小説家。2010年ノーベル文学賞受賞。邦訳のある著書に、『緑の家』(木村榮一訳、岩波文庫)、『嘘から出たまこと』(寺尾隆吉訳、現代企画室)、『楽園への道』(田村さと子訳、河出書房新社)、『フリアとシナリオライター』(野谷文昭訳、国書刊行会)、『若い小説家に宛てた手紙』(木村榮一訳、新潮社)、『官能の夢――ドン・リゴベルトの手帖』(西村英一郎訳、マガジンハウス)、『密林の語り部』(西村英一郎訳、新潮社)、『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(鼓直訳、現代企画室)、『継母礼讃』(西村英一郎訳、福武書店)、『果てしなき饗宴――フロベールと『ボヴァリー夫人』』(工藤庸子訳、筑摩書房)、『世界終末戦争』(旦敬介訳、新潮社)、『都会と犬ども』(杉山晃訳、新潮社)、『パンタレオン大尉と女たち』(高見英一訳、新潮社)、『ラ・カテドラルでの対話』(桑名一博・野谷文昭訳、集英社)、『小犬たち・ボスたち』(鈴木恵子・野谷文昭訳、国書刊行会)などがある。 八重樫克彦(やえがし・かつひこ)1968年岩手県生まれ。ラテン音楽との出会いをきっかけに、長年、中南米やスペインで暮らし、語学・音楽・文学などを学ぶ。現在は翻訳業に従事。訳書にマルコス・アギニス『マラーノの武勲』、『天啓を受けた者ども』(以上作品社)、『御者(エル・コチエーロ)』(新曜社)、『音楽家のための身体コンディショニング』(音楽之友社、すべて八重樫由紀子と共訳)。 八重樫由貴子(やえがし・ゆきこ)1967年奈良県生まれ。横浜国立大学教育学部卒。12年間の教員生活を経て、夫・克彦とともに翻訳業に従事。

レビュー

  • 深淵な権力の構造を映し出す歴史小説

    独裁の狂宴と人間の陰影 マリオ・バルガス=リョサの名作『チボの狂宴』は、 ドミニカ共和国を長年支配した独裁者トゥルヒーリョの暗殺前後を、多視点で描いた壮大な歴史小説です。 1961年の暗殺の瞬間、側近や実行者たち、そして独裁者自身の視点が交錯し、 さらに物語は35年後の後日談へと飛びながら、人間性の複雑さや記憶の重みが鮮やかに浮かび上がります。 リョサの筆致は冷徹かつ詩的で、暴力や権力が生み出す恐怖とカリブの陽光が交錯する描写には圧倒されます。 歴史小説としての重厚さがありながら、登場人物一人ひとりの内面を深く掘り下げており、 ただの政治劇ではなく、人間ドラマとしても高い完成度があります。 ただ、ページ数が多く、重層的な視点が頻繁に切り替わるため、 ちょっと読みにくいと感じる場面もありました。 また、暗殺計画や過去回想のテンポが速いため、 一度に読むより時間をかけてじっくり味わいたい作品です。 総じて、歴史の闇と人間の弱さ、そして希望を併せ持つ深い物語。 ラテンアメリカ文学や独裁政権のテーマに関心がある方にはおすすめしたい一冊です。

  • 独裁者による悪夢の世界をリアリズムで描く

    チボとは、実在したドミニカ共和国の独裁者であるラファエル・トゥルヒーリョ大統領のこと。独裁者に私物化されたドミニカの悪夢のような世界が、フローベールの流れを汲むヨーロッパ小説的リアリズムで描かれる。配下の議員の妻を寝取ったり、都合の悪い人間を抹殺したりと、やりたい放題である。大統領に不満を持つ、サルバドール、アントニオ、アマディートらによる大統領暗殺計画を縦糸に、尿失禁に悩む大統領の身近な出来事と、カブラル上院議員の娘のウラニアによる現在からの回想を絡ませて、複眼的に当時のドミニカの世界を浮かび上がらせる。 リョサと同様にノーベル文学賞を受賞しているガルシア=マルケスの「族長の秋」もトゥルヒーリョがモデルらしい。二人のノーベル文学賞受賞者に取り上げられるほど、トゥルヒーリョは文学者の想像力を刺激する存在らしい。マルケスのほうはシュール・レアリズムと実験的文体で描かれている。リョサの「チボの狂宴」を読んだあとは、「族長の秋」も読み返したくなる。

  • ノーベル賞は遅かった

    確かに、スキャンダルまみれの作家だが、 作品においては他の追従を許さないレベル。 感傷とは無縁だが、冷徹とも言い切れない立ち位置の表現が彼らしい。 もちろん、この本でも本領発揮しているのは言うまでもない。

  • 独裁者を抑えることができるのは時間だけなのか

    ドミニカ共和国を長年に渡って強権統治した独裁者トゥルヒーリョ。彼が暗殺される最後の日々、彼を暗殺する人々の決行の日とそれ以後の苛烈な運命、暗殺後の混乱を収拾していく後継統治者の綱渡りの知略、そして父親がかつて閣僚のひとりであった女性ウラニアの現在からの回想、といった異なる縦軸が入れ替わり立ち替わり登場と退場を繰り返しながら物語は進行していきます。 先日ジュノ ディアス著『 オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス) 』を読んで、多くのドミニカ人の人生を蹂躙したトゥルヒーリョという男の存在に興味を持ちました。ノーベル賞受賞のペルーの作家が同じ人物を中心に据えた小説があると知り、この『チボの狂宴』を手にしました。 小説の前半3分の2ほどまでは、気弱な部下たちが気難し屋の上司の顔色を見ながら職務にいそしむといった会社残酷物語調なところも見られなくもありません。嫌な上役のもと、それでも家族のために働くお父さんたち、といった具合に哀調を帯びた物語ともいえなくないでしょう。 が、後半は一転、為政者とその一派のとめどない暴走ぶりが物語をおおいつくします。あまりに苛虐な描写に息をとめることも二度三度あるほどです。静かに進んだ物語の薄い覆いが突然はがされて、その真の姿を見せたときに、読者は大いにたじろぐことでしょう。 トゥルヒーリョが齢七十に達しても他者を抑えつけることによってしか自らの存在に手ごたえを感じられなかったこと、つまりは、自らの<男性>性にからめとられてしまっていることに哀れを感じないではいられません。 そして彼は個人崇拝の異常な政治体制を築いた30年という歳月によって最後は組み伏せられたといえるかもしれません。時が与える残酷な衰えに涙する独裁者。 しかし、人間が長じるにつれて自らの心身の変化を<衰え>と否定的にしかみなせないのか、それともそれを<成熟>という言葉で肯定的にとらえることができるようになるのか、その別れ道を見誤った為政者の末路が描かれているようにも思える小説です。 --------------------- 500頁を越える大作を見事な日本語に移し替えた訳者の力量には大いに敬服します。バタ臭さを一向に感じさせない、大変読みやすい日本語に助けられて、この長編小説を最後まで楽しく読むことができました。 今後長きに渡って多くの日本人読者の間で受け継がれてほしいと思わせる作品なだけに、増刷の際に修正が必要だと考える箇所をわずかながら以下に列記しておきます。 「とんでもございません」(49頁)とありますが、「とんでもないことでございます」が正しい日本語です。「ない」というのは<ある/ない>という場合の「ない」ではなく、「幼い」「もったいない」「はしたない」という言葉の中の「ない」と同じく接尾語です。 「クライエント」(60頁)はスペイン語では確かに「cliente」と綴りますが、日本語では一般的に「クライアント」と表記します。 「娘の爆笑を前に」(136頁)とありますが、「爆笑」とは「大勢の人がどっと笑うこと」(大辞泉)であり、「娘一人で爆笑する」ことはできません。 「第一日め」(364頁)とありますが「第」と「目」の両方を使うのは誤用です。

  • 時間の循環性及び幾何学性構成を活かして"個人の自由"の尊厳を謳った力作

    ドミニカを舞台として、30年に渡る一人の総統の独裁体制下の社会・人間模様とその崩壊の過程を多角的視点で綴った作品。ガルシア=マルケス「族長の秋」と同様のテーマで驚くが、描写方法に工夫が見られる。邦題は原題(「La Fiesta Del Chivo」)のほぼ直訳だが、日本では通常"祝宴"と解されているラ・フィエスタを「狂宴」と訳している訳者の見解が本作の内容を示唆している(Chivoは山羊だが、ここでは統統の呼称)。 本作は次のいずれかの体裁を持った章で構成されており、これが作者の工夫である。作品全体を貫く時間軸は存在しない。 (1) 総統の言動・性癖を三人称で綴った章。戯画的と言う程ではないが、狂気と滑稽味を併せ持った典型的な独裁者として描かれている。だが、真の「狂宴」が始まるのは......。原題の巧みさに感心した。 (2) 反体制グループのメンバ達の過去と決起時における言動・心理をカットバックで三人称で綴った章。一番緊迫感と詩情に溢れている。 (3) かつての総統の片腕で、その後失脚し、今は脳溢血で倒れている老人の娘ウラニアの独白。ウラニアはNYの上流層で活躍中のキャリア・ウーマンで35年振りに帰国し、父親・親族に向かって過去の"問わず語り"をするという体裁。進行に連れ、本作がウラニアの物語でもある事が分かって来る。 (3)を加えたのは、物語に重層性だけではなく史実性を与えようとの意図があったのだと思う。相容れない父娘の和解というテーマを盛り込みたかったのかもしれない。全体として"個人の自由"の尊厳を謳った作品だが、作者がアメリカ的民主主義に与してしない事は文章の端々から窺える。中南米という地理・歴史的条件がもたらす複雑な政情、対米感情も丹念に書き込まれている。ボルヘスやガルシア=マルケスが好む時間の循環性及び幾何学性構成を活かした力作だと感じた。

  • 文学の至福

    バルガス=リョサさんの本を読むのは『楽園への道』に次いで2冊目。女性運動家とその孫であった画家ゴーギャンさんの物語を交互に語っていく『楽園への道』に比べると登場人物も多く、しかもみんな本名、あだ名、通称(?)などで呼ばれ(まるでロシア文学みたい)、最初は「読めるかなあ」とちょっと不安になったけれど、読み出したらぐいぐい引き込まれ、大冊を1週間で読んでしまった。 ドミニカ共和国を長年に渡って支配した独裁者トゥルヒーリョ、彼を狙う暗殺者グループ、そして作者の創作であるという米国に逃がれ数十年ぶりに帰国した女性ウラニアとその失脚した独裁時代の元重鎮である父、三者の物語が交互に描かれ、しかもそれぞれの物語の中では、現在と過去を継ぎ目なく語りが往還する。そうしたテクニックを駆使しながら、文学臭をつゆほども感じさせず、それぞれの人物を実際に見てきたかのようにぐいぐいと人間として描きぬいていく筆致が素晴らしい。独裁者トゥルヒーリョでさえ、性と老い、そして近親者のだらしなさに苦しむ1人の人間と思えてしまう。そして作品の最後に向かって、ジグソーパズルのピースがぴたっとはまっていく。こういう作品を読むと「知的」な小技に走った中途半端な現代日本小説を読むのが馬鹿らしくなってくる。 ここまで来たら作品社さん、反トゥルヒーリョ派の象徴だったミラバル姉妹を描いたフーリア・アルヴァレスさんの小説『蝶々たちの時代に』も出すしかないですよね。

  • 独裁国家

    リョサの小説は10冊位読んでいる。どれも傑作だがこれは凄まじい力がある。途中で息苦しくなるほどだ。永井豪並みの迫力を感じる。独裁者というものを感じるにはこの本ほど優れたものはないだろう。

  • 具体性のパワーがある。

    ノーベル文学賞受賞ということで読んでみた。多くの場面を輻輳させながらひとつのタペストリーを作り上げていくリョサの手法(らしいです)はなかなか見事。ひとつひとつのエピソードに具体性があり(まあ半分ノンフィクションだからですが)、しっかりとドミニカの世界に取り込まれていく。日本の某ノーベル賞候補作家のようなあいまいさや情緒的なところがなく、きちんとクライマックスがあり、そこにパワーを感じる。こうしてきちんと起承転結をつけてその中に思想を織り込む作家のほうが私は好きだ。自分自身が単純なだけかもしれないが。

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